姫トレ物語(井上遥香)

「井上さん、明日がんばってね!」
部署の後輩が声をかけてきた。
井上遥香はモニターから目を離し、笑顔で答えた。
「ありがとう。でも、あまり期待しないでね」
カレンダーの赤丸——姫ボタル瀞川平トレイルラン。
明日の朝、待ちに待った大会だ。
遥香が所属するトレイルランニングクラブの年間行事の中でも、特別な位置を占めるイベント。
参加し始めて今年で4年目になる。

時計を見ると午後5時半。そろそろ出発しなければ。
「お先に失礼します」
荷物をまとめ、急いでオフィスを出た。駅へ向かう道すがら、スマホを取り出して既にグループチャットで盛り上がっているクラブのメンバーたちにメッセージを送る。
「今から向かいます!」
返信は即座に届いた。
「待ってるよー!」
「井上ちゃん、急いでー!」
遥香は思わず笑みがこぼれた。
走ることも好きだけど、実はこの大会前の宿での時間が一番の楽しみだったりする。

神戸から車を走らせ、遥香が旅館「なかや」に到着したのは午後8時過ぎだった。
「井上ちゃーん!」
ロビーで待っていた唯一の女性メンバー、美香が手を振った。15名ほどのクラブメンバーの中で女性は彼女と遥香だけ。
男性ばかりの中で最初は緊張したが、今では家族のような仲間だ。
「みんなロビーで待ってるよ。荷物置いたら来てね」
部屋に案内され、急いで荷物を置いた遥香は、旅館のロビーに集まっていたメンバーたちの輪の中に加わった。

「お、井上!やっと来たか」
クラブ代表の中田さんが缶ビールを差し出す。
「ありがとうございます。でも、私は明日に備えてノンアルコールで」
「さすが井上さん、真面目だね」と中田さんは笑った。
「まあ、俺たちはあんたみたいに入賞争いできる実力ないからさ」
「そんなことないです!私なんて…」
「謙遜謙遜。去年は7位だったじゃない」
確かに、入賞するほどではないにしても、クラブの中では上位の成績を残している。
それでも、遥香にとって大会の結果よりも大切なものがあった。
それは今、この瞬間だ。
ディナータイムが近づき、みんなで食事処へと向かう。

今年も『特選但馬牛のしゃぶしゃぶ【松コース】』だ。
「井上さんは好きだよね、このコースだよね」と美香が言った。
「うん。しゃぶしゃぶってお肉のタンパク質とシメの麺の炭水化物のバランスがいいし、柔らかくなった野菜も消化に良くて、明日の走りに最適なんだ」
テーブルに並べられた色とりどりの具材と上質な但馬牛の霜降り肉。湯気の立つ鍋を囲んで、全員の顔がほころぶ。
「乾杯!」
ノンアルコールドリンクを掲げる遥香の周りで、話題は自然と明日のレースへと移っていく。
コースの予想、天気、それぞれの目標タイム…。

「井上ちゃんはこのゴマだれ好きだったよね?」と美香がゴマだれを差し出した。
「うん、ここのゴマだれだけは特別!普段はポン酢派なんだけどね」
肉を湯にくぐらせ、ゴマだれにつけて口に運ぶ。
「んー、最高!」
時間が経つにつれて、話は仕事や日常の話、過去の大会の思い出話へと広がった。
笑い声が絶えない。
これが遥香の一番好きな時間だ。
「あぁ、また食べすぎちゃった」と遥香は小さく呟いた。
楽しくて食べすぎてしまう事が毎年の課題だ。
「大丈夫、明日走れば消費するって」と美香が肩をポンと叩いた。

食事が終わり、部屋に戻った遥香は布団に横になりながら明日のコースをイメージトレーニング。
スマホを手に取ると、グループチャットが再び賑わっていた。
「みんな寝てないの?」と投稿すると、すぐに返信が来た。
「井上が優勝するところ想像して眠れなくなった」
「俺たちは応援するだけだから大丈夫だよ」
にぎやかな冗談に、遥香は心の中でありがとうと思った。
就寝前に窓の外を見ると、満天の星。
明日は天気も良さそうだ。
そっと瞼を閉じ、レースの事を想像しながら、遥香は眠りについた。

朝日が差し込む部屋で目を覚ました遥香は、軽くストレッチをしてから、用意しておいたウェアに着替えた。
ロビーには既にメンバーたちが集まっていた。
「よく眠れた?」と中田さんが聞いた。
「はい!昨日のしゃぶしゃぶのおかげで完璧です」
美香が遥香にエナジーバーを渡す。
「これも持っていきなよ」
遥香はカバンにしまいながら、メンバー全員を見渡した。
この3年間、共に走り、励まし合ってきた仲間たち。
明日からはまた普通の日常に戻るけれど、今日だけは特別な一日。
バスに乗り込む前、遥香は深呼吸して空を見上げた。澄んだ青空が広がっている。
「チャージ完了!行こう!!」
遥香の声に、クラブメンバー全員が応え大会会場へと向かった。

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